東日本大震災から11年目の3月11日が来ます。テレビで流れていた映像があまりにも衝撃的であったことを、今でもありありと思い出します。
同時に、予算審議で行き詰まり、翌週にも解散になると見ていた菅直人政権を取り巻く政治情勢が一瞬にして変わり、選挙が遠のいていく実感を持ったことも覚えています。
ちょうどあの日の15時~選挙に向けての内輪の打ち合わせ会議を予定していて、私も事務所に戻った時の大きな揺れでした。当時私が事務所として借りていた建物は傾き、現在の事務所に移転することにもなりました。
この日の夜、岩手にいる仲間と連絡を取り合い、何かできないかと相談をしていましたが、その後、地元の方々からも「支援のために何かをしたい」という声が多く寄せられ、「日本は捨てたもんじゃない」と、正直思いました。
募金活動を始めて、私は募金をどう使っていくかを考えました。
募金は、募金をされた方々の思いの額でもありますから、できれば全額被災地のために使いたいし渡したいという思いから、現地への交通費をはじめ、経費は基本的に自費で賄おうと決めました。のちに、被災地にある支部の立て直しのためだけに街頭募金を充当している政党があるのを見て、愕然としたのも覚えています。
そして何より、それまでの経験から、復興は時間がかかるし、その間に活動を継続するためには、顔が見える関係をつくることが必要だと判断しました。しかも、資金力も人も少ない民間の力で顔の見える関係を築いていくには、多くの地域とおつき合いすることは難しく、地域を絞る必要がある。
その時、私の元秘書が岩手県議会議員だったので状況を聞いたところ、大槌町が街の中心部を軒並みやられたということだったので、3月23日に羽田―花巻空港の臨時便に乗り、彼と合流して大槌町に入りました。大槌では元秘書の同僚の若い県議の出身地区・安渡(あんど)に行き、その夜は安渡小学校に泊まりました。そこで、限られた資源を生かす場所を安渡小学校避難所に決めました。
復興支援への関心も時間とともに薄らいでいくなか、コロナ禍で大槌町との実際の人の行き来がここ2年途絶えてしまい、現在は交流活動も水を差されてしまっていますが、それでも細々とつながりが持てているのはうれしいことです。これも、交流やつながりを持つことができるように活動してきた多くの人や団体と交流ルートができたり、大槌へのツアーを続けてきたおかげです。
また、大槌の漁師たちと酒を酌み交わすほどの関係をつくった瀬谷区の仲間たちが、震災の翌年に募金を3,625万円も集めて、新おおつち漁協に船を贈りました。その船は『瀬谷丸』と名付けられ、今も大槌の海で活躍しています。
こうしたことを見ると、当初の方針が的外れではなかったのではと思っています。
しかし、当初想定していた通り、復興までには時間がかかります。しかも、復興に終わりというものはなく、常に変化をし続け、街づくりという段階と両面を持つようになります。現状をしっかり見極めた上で、今後どういう地域をつくっていくのかという青写真を各市町村で持つことが求められ、そこに向けての取り組みが進んでいくわけです。
そのなかで、今後、瀬谷であり、横浜であり、私たちとのネットワークが大槌の力になれることがあればいいと思っていますし、そうなれるように進めていきたいと思います。
活動を始めた当初から、どちらか一方が「支援をされる」「支援をする」という関係では長続きはしないと思っていました。そして時間がたつほどに、「支え合っている」とますます実感できるようになっています。私たちの生活に新たな刺激やチャンスを提供してくれる交流であり、やり取りだと思っています。
お互いの地域に住む人たちがお互いの生き方や人生を豊かにしていくそのきっかけの一つにできれば、最高だと思います。
先日、大槌に住む方から妻に電話があり、「11年間、ありがとう」と言われたそうです。「横浜との出会いがあってよかった」とも。
津波という災害が起き、多くの犠牲や破壊があったことは事実ですし、今さら取り返せないものですが、それをきっかけの一つとして「よかった」と思えることも多く生まれてほしいと思っています。
民間復興支援グループ 「ゆいっこ横浜言いだしっぺ支部」 代表 さかい学
※写真は、岩手県大槌町で震災直後から「居酒屋みかドン」を開いて、全国から集まる人たちに元気をくれた柏崎夫妻