東日本大震災から10年目を迎え、被災された方々とそのご家族の皆さまに改めて心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
10年前の午後2時46分、私は戸塚にある私の事務所にいました。事務所のビルも激しく揺れました。そしてテレビからの津波の映像を見たときのショックは未だに忘れません。津波がどんなものか、話で聞いていたものと実際の映像では、まったく違いました。
あれから10年。
昨年、陸前高田、大船渡、釜石、大槌と沿岸部を見てきました。
まだ土木工事が行われているところもありましたが、すっかりきれいに町が整備されていました。
平成25~26年にかけて、復興大臣政務官として復興事業に携わりましたが当時の面影などまったく感じさせない町並みを見て、歳月の流れを強く感じました。
被災者の皆さんは本当に大変だったと思います。親族、知人の死や、自宅等の流出、仕事のみならず生活そのものの崩壊が一瞬にして起きたわけですから。
そしてこの東日本大震災は、それがどんなときに自分にふりかかるかわからないというリアリティを我々に与えたと思っています。
家族というものが見直され、結婚する人が増えた、町内会自治会に加入する人が増えたなどの報道も当時あったことを覚えていますが、何より、私たちが生きていく上での価値観にも影響を与えたのではないでしょうか。
少しずつときが経つに従い、薄れていくものもあれば、薄れさせてはいけないものもあるだろうと思います。
震災直後、横浜において、被災地のために何かをしたいという善意を目の当たりにしたことを覚えています。
そこで、何かしたいという方々に、「自分も協力できた、少しは力になれた」という思いを持っていただくと同時に、被災地の方々の支援になるようなことを提供するのも私のお役目の一つかもしれないという考えに至りました。
とは言っても、多くのお金やマンパワーを注ぎ込むことはできないので、岩手県大槌町の安渡小学校避難所に支援の場を絞り、活動を展開しようと決めました。
『ゆいっこ』という名前のボランティア団体を岩手の仲間たちと立ち上げ、横浜の方々にも多く足を運んでいただいたお陰で、大槌町にも仲間が何人もできました。10年経った今も交流が続いています。
支援活動と銘打って進めていましたが、一方的な支援では長続きしません。最終的には「支えたり、支えられたり」の関係を構築していきたいという思いを持ちながら展開してきたので、双方の関係が続いているということは求めるべき方向に進んでいるのかと思います。
震災の翌年には、瀬谷区の若手有志の皆さんが中心となって募金活動を行い、3,625万円以上を大槌の漁協に寄付をし、発災2年後には定置網漁船『瀬谷丸』が誕生しました。
現在、瀬谷区内のスーパーで瀬谷丸で水揚げされた魚が売られていたり、瀬谷区内の小学校に給食として提供されたりと、このようにお互いの関係が広がっていることは本当に嬉しいことです。
冒頭、町並み整備はほぼ終わっていると書きましたが、地域としてはこれからもまだまだ課題が山積していると思います。そこに住んでいる方々が不便や不都合を感じることなく、安心して生活できると同時に、将来的にも夢や希望を持って生活ができ、子どもたちにも「ここで生きていきたい。家庭を築いていきたい」と思ってもらえる地域にして行くには(これは被災地だけでなくすべての地域の課題でもありますが)、日々前へ進めていく努力が必要です。
10年というのは大きな節目ですが、この節目を超えて、今後とも力を合わせてよりよい地域づくりを進めていきたいと思います。