視察レポート)岩手県バッタリー村より

2009年12月01日

バッタリー村は、岩手県久慈市、昔の山形村荷軽郡という地区にあります。
バッタリー村には、憲章が制定されており、村の入口に掲げてあります。
「この村は与えられた自然を生かし、この村に住むことに誇りを持ち
一人一芸何かをつくり 都会の後を追い求めず
独自の生活文化伝統の中から創造し、
集落の共同と和の精神で 生活を高めようとする村である」
昭和60年7月14日 制定
となっています。

今回、T君に案内をされてこのバッタリー村に来たわけですが、来る前段階の情報では、T君から「都会の後を追わない、という憲章を作っている村があるので行きましょう」としか聞いていなかったので、まず、着いても、ここが何をする場所か、何を提供する場所かわからない。

受付のような建物で、南部せいべいを火にあぶりながらお茶を飲み、木藤古徳一郎(きとうごとくいちろう)バッタリー村長が、短角牛の話やら、農協に勤めていた話やら、『大地を守る会』という藤本敏夫さんという方が初代会長であった都市住民との交流の話などをするのを聞きましたが、で、ここは?何?という感じ。

つまり、今考えればこれこそがこの山村を尋ねてきた都会の人々がそれぞれの自由に過ごすことができる、環境なんですね。
とらわれることなく、主体的に、訪問者が関わることができる、これがこのバッタリー村の魅力の一つなんだ、と、横浜に戻ってから後追いでインターネットを見て感じました。

そういう意味では、バッタリー村は不思議な空間です。
すべてある、用意されているけれども、自らが行動を起こし求めないと手に入れることができなくなっているのです。
それが、炭焼きであり、その炭を使ったバーベキューであり、五右衛門風呂であり、囲炉裏であり、豆腐づくりであり、寒干し芋などの保存食づくりであり、白樺の樹皮液取りであり、木の皮編みであり、そば打ちであり、わら細工であり、染物づくりであり、竹細工であり、大工仕事であり、野鳥観察であり、芸術創作活動であるわけなのです。

バッタリー村、その魅力

■自分探しのできる村

しかしいきなり何の説明もなく連れて来られた私は、きつねにつままれたような状態で、村内の施設を案内してもらいました。
当たり前ですが、全て手づくり。
そして、木藤古村長だけでなく、都会からの人たちがこれらの施設を作るのに自ら汗を流して関わっているのを知りました。すばらしいと思いました。

私自身、当時阿蘇郡蘇陽町という山の中に住んでいた経験がありますが、その時に感じたのはまさにここでした。

山の生活は、お金は入ってこない。それに結構忙しく時間もあまりないが、それでも自分が何かをやりたいと思えば、その空間はある。その可能性はかなり用意されているのではないかと思いました。

翻って都会ですが、何といっても場所がない。仲間で集まるだけでも苦労するのだから何かしようと思っても空間がない。汗を流すことができないのです。私は、汗を流し、自ら努力しないと感動は訪れないと思っているので、こういう都会には感動が減っていき、生きる力も弱くなっていっていまうと感じざるを得ません。

人間も生物の一種です。生物にとって不自然な環境ではより良い生き方はやはりできないのではないでしょうか?
そういう意味では、都会で最も欠けているものが、このバッタリー村には用意されている。それもかなり洗練された知恵として木藤古村長が持っているので、都会の人はさほど苦労せずとも何がしかの成果までたどり着くことができる。そしてそこに感動がある。
つまりは、小さな自分探し、自己実現の初級者コースなのではないでしょうか。

■人が集まる村

以前、ここに小坂純也君という東大生が下宿をし、山村生活を体験していたそうです。そのうちに東大を中退。性根をすえて、山村文化を身につけたい、とのことで約1年滞在したとのこと。変わった若者がいるんだ、と思っていました。
すると、炭の作品が並べられているところで木藤古村長が何気なく「溝口さんもここに来て炭焼きを勉強して行った」と発言。
「えっ、あの天草の溝口秀士(みぞぐちひでし)さん?」と思わず、知り合いの名前が口をついて出てしまいました。すると、「(溝口さんは)熊本だったけな」とのこと。間違いない!!と確信しました。
妙なところでつながっているんだなあ、と感心しました。

溝口さんとはもう14、5年前になるでしょうか。私が蘇陽町にいた時に、熊本で”変わった炭焼きおじさん”としてお会いしておりました。
何と私の妻も、その時に懇切丁寧に”蝉”の炭焼きを教えてもらっていたような……。懐しい。

ところが、当初予定もしていなかった熊本県芦北町に、この2週間後に行った時、溝口さんにお会いすることができました。何と芦北町の「みどりの里」というところのセンター長となっていて、何とそこの緊急雇用事業であの小坂純也君が雇われ、この古名地区に住んでいたのです。
一度に二人に会うことができました。この施設のことは、また、後ほど書きますが、しかし、その時、溝口さんは、”炭焼きはあまり教えてもらえなかった”とぽつり。では何を学んできたのでしょうか?

生きている村

バッタリー村のことは、インターネットで確かめて見てください。私は現地に行っていてもインターネットのページを見て、ああこういう所だったんだ、と改めて中身がわかったようなものでした。

とにかくバッタリー村は生きています。
都会の人たち、大学の研究室の学生たちがどんどん来てはアイデアと労力をつぎ込んで新しい建物ができていったり、新しい芸術作品が登場したり、新しい遊び場ができたりしています。

私が寄らせていただいた時には、”縄文の叫び”と名付けられた木で作られた鉤を吊るす型の囲炉裏が作品として展示されておりました。こういう遊び心もいいですね。楽しみながらやっているところに、ここにもまた人を魅きつける力が湧きでてくるんでしょう。

ちなみに、「バッタリー」とは川の流れる水を利用して屋内で粉をひくような仕掛けのことだそうです。
都会から来る”大地を守る会”の人々と交流をしているうちに、山村の文化を誇れる気持ちとなっていき、バッタリーを象徴にしたそうです。
葛巻町を見てきたばかりでしたから、そこで感じた電気以外のエネルギーの必要性、その最も身近でシンプルな見本がこのバッタリーだなあと思いました。ここでは、バッタリーも現役で稼動しています。

バッタリーに帰る現代人

山村の生活文化に価値を見出している人は間違いなく増えている。自分の足跡を残す、つまり、小屋であれ作品であれ作り上げることに感動を覚えそれを求めている人は少なからずいる。改めてではありますが、確信させていただいたバッタリー村でした。

ちなみに、木藤古村長は来年80才になるそうでそろそろ引退だそうです。来年には、全国公募で新村長を選ぶ村長選をやるんだとおっしゃっておりました。
木藤古村長には、後継者の目星はもうつけてるんですか?と聞いたら、「望月さんなんかいいと思うんだがなあ。定住でなくとも半定住で良しとしよう」とのお答えでした。
(ほっほー、望月さんね。どんな方だろう)と思っておりましたが、なんとその晩、その望月さん宅に泊めてもらうことになっていたとは。
世の中、つながっている。と二度も感じたバッタリー村でした。

木と木の間にある「獣道」のようなところにロープが垂れ下がっています(写真中央)。子ども達はこのロープにつかまって、上まで駆け上がるという遊びを楽しんでいます。大地全てが彼らの遊び場。

村にはいっぱい動物がいました。